芦屋みっけ 特集芦屋の来歴

JANUARY 17

一月
十七日

平成七年、午前五時四十六分。この街の九割を超える世帯が、なんらかの形で家に被害を受けました。阪神間の都市のなかで、いちばん高い割合です。

PHOTO — 公光町(写真差し替え)

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01

五時四十六分

一月十七日は、火曜日でした。

震源は淡路島の北部。深さはおよそ十六キロ。芦屋から見て、南西の方角です。

冬の午前五時四十六分は、まだ暗い時間です。ほとんどの人が、家のなかにいました。寝ていた人が多かったはずです。

第一話に、この街には三本の鉄道が通っている、と書きました。その三本が、この朝、同時に止まっています。

阪神本線は運休し、芦屋駅は営業を止めました。運転が一部で再開されたのは一月二十六日、甲子園と青木のあいだだけです。全線が戻ったのは六月二十六日でした。阪急の芦屋川駅も被災し、営業を休止しています。国鉄から変わって八年目のJR芦屋駅は、駅の施設が崩落し、復旧工事がすべて終わったのは二年後の平成九年二月です。

大阪と神戸のあいだにあって、どちらにも電車一本で通えることが、この街の成り立ちでした。その電車が、五か月間、まともに動いていません。

この回では、その朝に何が起きたかを、できるだけ記録のとおりに並べます。形容を足しません。芦屋市が公開している数字と、復興の記録があります。それで足りると思っています。

02

数字

死者、四百四十四人。負傷者、三千百七十五人。

四百四十四人という数字は、平成十四年十二月二十六日の時点のものです。震災から、八年近くたっています。地震で直接亡くなった人だけでなく、避難生活のなかで体調を崩して亡くなった人も、時間をかけて数えられていった。数字が固まるまでに、それだけの年月がかかりました。

避難者は、ピークとなった一月十九日の時点で、二万九百六十人。当時の市の人口のおよそ四分の一が、家を出て避難所にいたことになります。

建物の被害は、全壊四千七百二十二棟、半壊四千六十二棟、一部損壊四千七百八十六棟。

世帯で数えると、全壊が七千七百三十九世帯、半壊が九千九百二十七世帯。合わせて一万七千六百六十六世帯で、市内の五割にあたります。一部損壊の一万四千五百六十四世帯を加えると、九割を超えました。

阪神間の都市のなかで、最も高い割合でした。

十軒のうち九軒が、
無傷ではありませんでした。

芦屋は、住宅の街です。第四話に書いたとおり、工場も港も持たず、住むための街であることを法律で決めた場所です。その街で、住宅がこわれた。この街にあったものの、ほとんどが住宅だったから、被害の割合がそのまま最も高い数字になりました。

住むための街が、住む場所を失った朝でした。

FIG.1いまの住宅地。ここに建っている家の多くは、あの日のあとに建ちました(写真差し替え)

03

十三件

地震の発生から十九日までの三日間で、市内で十三件の火災が起きています。

数としては、多く聞こえないかもしれません。ただ、世帯数あたりの出火率で見ると、被災地のなかでも最も高い率の市区の一つになります。神戸の長田区と並ぶ数字でした。

火は、揺れとは別の被害を出します。揺れに耐えた家が、隣から燃え移った火で失われる。倒れた家の下に人がいるうちに、火が来る。

芦屋の住宅地は、道が細く、家が近い。住むための静かな道幅が、火の日には不利に働きました。第四話で書いた「静かであると決めた街」の道幅は、この朝、別の顔を見せています。

三日間で十三件。数字はそれだけです。

04

止まったもの

水道は、直後に市の全域で止まりました。給水率が九割六分に戻ったのは、二月二十八日です。四十二日間です。

下水処理場は、処理機能を失いました。処理が再開されたのは、一月三十一日。二週間、下水は処理されないまま流れていました。

電話は、九千二百回線が不通になり、一月三十一日までに復旧しています。

道路は、市道のうち国の補助対象になった分だけで、四万七千四百十メートルが被害を受けました。四十七キロです。市域の南北がおよそ数キロしかない街で、四十七キロの道がこわれた。橋は十二か所。公園は三十三か所。海岸の施設は八か所。河川は二か所。

四十二日間、
蛇口から水が出ませんでした。

市が持っていた公共施設の被害額は、およそ四百五十一億円にのぼりました。第五話に、芦屋浜の高層住宅の総費用が四百八十億円だったと書きました。海の上に三千三百八十一戸の街を丸ごとつくった額と、ほぼ同じ額が、公共施設だけで失われたことになります。

ライフラインという言葉は、この震災のあとに一般に広まりました。水と、電気と、ガスと、電話と、下水。ふだんは意識しないものが、全部いっぺんに止まると、それが生命線だったことが分かる。

この街で、その言葉が実感として使われた最初の冬でした。

FIG.2住宅地の路地。道幅は、住むための幅でできています(写真差し替え)

PHOTO — 大桝公園(写真差し替え)

05

三千十二戸

避難所のあとには、仮設住宅があります。

芦屋市には、三千十二戸の応急仮設住宅が建てられました。そのうち百十二戸は、高齢者や障害のある人のための、地域の事情に合わせた型のものです。

被災地全体では、四万八千三百戸の仮設住宅が建てられています。前例のない規模でした。そのうち、高齢者や障害のある人に合わせた地域型のものが、神戸、尼崎、西宮、芦屋、宝塚の五市で千八百八十五戸。芦屋の百十二戸は、その一部です。

仮設住宅は、当初二年で解消するという原則で設けられました。けれど、二年では足りませんでした。期限は三度延長されています。被災地全体で仮設住宅の入居者がゼロになったのは、平成十二年一月十四日。震災から千八百二十三日後です。五年でした。

仮設を出たあと、自力で住まいを確保できなかった人のために、災害復興のための公営住宅が用意されました。被災地全体で四万二千百三十七戸が供給され、そのうち二万五千四百二十一戸が新しく建てられたものです。避難所、仮設、復興住宅。三段階を経て、住まいが戻っていきました。

第五話で、埋め立てた土地の話を書きました。その南側に、さらに足された土地があります。南芦屋浜です。そこに復興住宅が建てられ、平成十年の四月に入居が始まりました。

海を埋めてつくった土地が、家を失った人の行き先になった。埋め立てを始めたときには、誰も想定していなかった使い方です。

06

公光町、大桝町、茶屋之町

市の中央部に、ひとかたまりの区域があります。西は県道奥山精道線、北は国道二号、東は駅前線、南は阪神電鉄の本線に接する、およそ十三・四ヘクタールの範囲です。公光町、大桝町、茶屋之町の、それぞれ一部にあたります。

この区域には、震災の前に五百四十四棟の建物がありました。

そのうち三百四十二棟が全壊しています。六割三分です。半壊が七十一棟、一割三分。四棟のうち三棟が、全壊か半壊でした。

もともと、道路や公園といった都市の土台が弱い区域でした。道が細く、火が燃え広がりやすく、逃げる場所がない。そのまま元に戻せば、同じことがまた起きる。

市は、この区域を土地区画整理の対象にしました。道を広げ、区画を整え、公園を置く。土地を持っている人には、少しずつ土地を出してもらう。減歩といいます。この区域では、およそ四分三厘でした。

元に戻すのではなく、
直して戻す。

減歩というのは、区域の全員が少しずつ土地を差し出して、その分で道と公園をつくる仕組みです。誰か一人の土地を取り上げるのではなく、全員が同じ割合で出す。家を失った直後の人たちに、さらに土地を出してほしいと頼む事業でした。合意が要ります。時間がかかるのは、そのためです。

平成八年六月に事業計画が認可され、仮換地の指定、移転補償の交渉、工事と進んで、平成十四年五月十七日に換地処分が公告されました。七年です。

いまこの区域には、大桝公園と茶屋公園があります。どちらも、防火水槽を備えています。公園でありながら、次に火が来たときのための設備を地下に持っている。

芦屋の公園は、第三話の慰霊塔もそうでしたが、ただの遊び場ではないことが多い。

FIG.3大桝公園。地下に防火水槽があります(写真差し替え)

07

新しく見える理由

芦屋を歩くと、住宅がどこも新しく見えます。

坂の途中の家も、駅前の建物も、路地の奥の家も。古い街だと聞いていたのに、古い家が少ない。そう感じた人は多いと思います。

理由は、この日です。

市内の世帯の半分が、全壊か半壊でした。一部損壊まで含めれば、九割を超えます。全壊した七千七百三十九世帯の家は、建て替えるほかありませんでした。震災のあとの三十年で、この街の住宅は大きく入れ替わっています。

芦屋が美しく整って見えるのは、第一話の六麓荘の協定や、第四話の建設法のような、決めごとの積み重ねによるところが大きい。それは前の回で書きました。けれど、それだけではありません。

一度、半分がこわれた。そして、そこから建て直した。建て直すときに、前より整えた。

いまの芦屋の街並みは、あの朝から数えて三十年でつくり直されたものです。■

COLUMN

海の上の二十九階

第五話で書いた芦屋浜の高層住宅は、埋立地の上に立っています。地盤が弱い場所での地震は、建物にとって厳しい条件です。

この建物は、倒れませんでした。いまも高浜町と若葉町に、当時のまま立っています。工業化工法で建てた実験は、震災を経て、結果として一つの証明になりました。

08

歩いてみる

この回は、案内できる場所を、あえて絞ります。

阪神芦屋駅から北へ、公光町、大桝町、茶屋之町のあたりを歩いてください。道が、まわりより少し広いことに気づくと思います。区画が揃っていて、家の並びに古いものがない。それが、七年かけて直して戻した区域です。

大桝公園か茶屋公園で、少し座ってください。地下に防火水槽があります。目に見えるのは、ふつうの公園です。

それだけです。あとは、いつもどおりに歩いてください。この街の家が新しく見える理由を、知っているのと知らないのとでは、同じ道が違って見えます。

公光町・大桝町・茶屋之町
震災復興の区画整理で、直して戻した区域
大桝公園・茶屋公園
地下に防火水槽を持つ公園
高浜町・若葉町
埋立地の上で、倒れなかった二十九階

SOURCE 発生日時と震源は公開資料に拠りました。人的被害、避難者数、建物被害の棟数、火災件数、出火率、ライフラインと公共土木施設の被害と復旧時期は、芦屋市「被害の概要」に拠りました。世帯単位の被害数と、阪神間で最も高い割合であったことは、芦屋市「芦屋市の歴史と略年表」によります。芦屋中央震災復興土地区画整理事業の区域、面積、被災状況、減歩率、事業の経過は芦屋市の公開資料によります。応急仮設住宅の戸数は内閣府の公開資料、被災地全体で仮設住宅の入居がゼロになった日付は報道記録によります。南芦屋浜への入居開始は芦屋市の公開資料によります。