芦屋みっけ 特集芦屋の来歴

ADDING THE SEA

海を
足す

昭和四十四年、この街は面積を増やし始めました。山は動かせません。増やせるのは、海のほうでした。

PHOTO — 芦屋浜、高浜町(写真差し替え)

SCROLL

01

縦に細長い

芦屋の地図を見ると、市域が縦に細長いことに気づきます。北に六甲の山、南に大阪湾。そのあいだを、東西は隣の市に挟まれて、南北に伸びている。

この形には、伸びしろがありませんでした。

東も西も、市境の向こうは別の街です。北は山で、山の上には別荘地ができていましたが、その先は市街化できる土地ではありません。南は海。

戦後、人口が増え始めます。国際文化住宅都市という看板を掲げ、住むための街として復興を進めた結果、住みたい人が増えた。ところが、住む場所を増やす余地が、地図の上にない。

昭和三十年代、街はまず北へ向かいます。芦有道路が通り、奥山の開発が進みました。それまで山だった場所に道が引かれ、人が住めるようになっていく。南側では国道四十三号が引かれ、下水道と区画整理という都市の土台が整えられました。

それでも足りませんでした。

山は削れても、増やせません。残っていたのは、海のほうです。

FIG.1山から海まで、縦に数キロ。東西は隣の市に接しています(写真差し替え)

02

白砂青松

埋め立てる前の海岸線は、いまよりずっと北にありました。

芦屋の浜は、白い砂と松の林が続く海岸として知られていました。平安時代の歌人、在原業平がこのあたりに別荘を構えたという伝承があります。業平町という町名は、そこからきています。明治の後半になると、打出の浜とともに海水浴場として賑わいました。

明治四十年には、精道村がこの松林を活かして、芦屋遊園地を開いています。阪神電車が駅を置いた二年後です。駅ができ、電車で人が来られるようになったので、浜に遊び場をつくった。

第二話に、室戸台風で十六艘の船が流されたことを書きました。あの船は、この浜から出ていたものです。海水浴客が来る夏の浜と、舟を出す人の浜が、同じ場所にあった。

埋め立てられたのは、
海だけではありません。

松林と、砂浜と、海水浴場と、舟の出る浜。昭和四十四年から始まる工事は、それらの上に土を置いていく工事でした。

ただ、松のほうは少しだけ残りました。芦屋公園に立つ松は、この浜に広がっていた林のなごりだといわれています。芦屋市の木がクロマツなのも、そこから来ている。海は埋まりましたが、木だけが、もとの海岸線の位置に立ち続けています。

いまの芦屋に、白砂青松の海岸はありません。埋め立てられた土地の南端に、新しく造られた人工の浜があるだけです。かつての海岸線は、市街地のなかに埋もれています。

03

一九七二年三月

昭和四十六年、市は総合計画をつくります。その指針になったのが、二十年前に住民投票で通した建設法でした。

埋め立てた土地をどう使うか。工場を誘致すれば税収になる。商業地にすれば人が集まる。港湾施設にすれば、物流の拠点になる。埋立地の使い道としては、どれも当時ごく普通の選択肢でした。

芦屋は、そのどれも選びませんでした。

良質な住宅と、良好な住環境を整備する。総合計画に書かれた方針は、それだけです。海を埋めてまで手に入れた土地を、住むためだけに使う。

兵庫県の企業局と芦屋市のあいだで協議が重ねられ、昭和四十七年三月、「芦屋浜埋立地構想・計画」がまとまりました。

ここに、もう一つの意図が乗ります。建設省です。当時の建設省は、集合住宅を工場でつくるように量産する、工業化の技術を進めたいと考えていました。海の上にできる真っさらな土地は、その実験場として理想的でした。

建設省の側にも、切実な事情がありました。戦後の住宅不足は、この時期になっても解消されていません。都市に人が集まり続け、住む場所が足りない。一戸ずつ大工が建てていては間に合わない。工場で部品をつくり、現場で組み立てる。自動車と同じやり方で家を量産できないか。そう考えていた時代です。

住むための街をつくりたい市と、新しい建て方を試したい国。二つの思惑が、埋立地の上で重なります。

FIG.2芦屋浜の高層住宅群。海の上の土地に、実験として建てられました(写真差し替え)

PHOTO — 芦屋浜、若葉町(写真差し替え)

04

百二十七社、二十二組

昭和四十七年、六つの団体が共同で、一つの競技を主催しました。建設省、兵庫県、芦屋市、日本住宅公団、兵庫県住宅供給公社、日本建築センター。

正式な名前は、工業化工法による芦屋浜高層住宅プロジェクト提案競技といいます。

求められたのは、十四階建て以上の高層住宅を、工業化された工法で建てる技術の提案でした。それまで、そういう実績は国内にありませんでした。部品を工場でつくり、現場で組み上げる。低い建物ならやっていましたが、十四階を超える高さで、それをやった例がなかった。

工業化工法というのは、簡単にいえば、建物を「建てる」のではなく「組み立てる」考え方です。柱や梁や床を、あらかじめ工場でつくっておく。現場ではそれを運んできて、組む。天候に左右されにくく、品質が揃い、工期が読める。低層の団地では、すでに使われていた方法でした。それを、十四階以上でやれるか。高さが上がれば、部品の重さも、精度の要求も、まったく変わります。

企業の側から見れば、実績のないことをやれと言われている。しかも設計だけでなく、事業として成立させる提案を出せ、と。

それでも、集まりました。百二十七の企業が、二十二のグループに分かれて応募し、二十五の提案が出されています。

前例のないことを、
百二十七社が、やると言いました。

一位に選ばれたのは、新日本製鐵、竹中工務店、高砂熱学工業、松下電工、松下興産の五社による企業連合でした。鉄をつくる会社、建てる会社、空調の会社、電気設備の会社、不動産の会社。それぞれの本業を持ち寄った組み合わせです。

連合の名前は、アステム。芦屋浜の頭文字と、五社の頭文字を組み合わせたものでした。

05

四百八十億円

着工は昭和五十一年一月。竣工は昭和五十四年七月。三年半でした。

できあがったのは、三千三百八十一戸の住宅です。総床面積は三十四万平方メートル。工事に携わった人の延べ数は七十万人。総費用は四百八十億円。

建物は鉄骨造で、低いもので十四階、いちばん高い棟は二十九階あります。高層に住むということ自体が、まだ一般的ではなかった時代です。海の上の土地に、二十九階建てが立った。

構造は、鉄骨の骨組みに、あらかじめ工場でつくったコンクリートの部材を組み合わせたものです。鉄をつくる会社と建てる会社が同じ連合にいたことが、ここで効いています。竹中工務店を中心とする共同企業体が施工しました。

この建物には、当時としては新しいことが詰め込まれていました。ただし、それは構造や工法の話です。住戸の内部は、当時ごく普通だった間取りと設備が採用されています。未来の建て方を試す実験ではあっても、住む人に未来の暮らしを押しつける実験ではなかった。

用途は、民間と公営の分譲と賃貸の住宅です。不特定多数が住むことを前提にした、ふつうの住宅でした。

昭和五十六年、この建物は日本建設業連合会のBCS賞を受賞しています。建築として、評価されたということです。

いまも、高浜町と若葉町に建っています。

FIG.3–6芦屋浜シーサイドタウンの現在。ペデストリアンデッキ、地区センター、住棟(写真差し替え)

COLUMN

六つの団体

提案競技を主催したのは、建設省、兵庫県、芦屋市、日本住宅公団、兵庫県住宅供給公社、日本建築センターの六つでした。国と、県と、市と、住宅を供給する二つの公的機関と、建築の技術を審査する機関。

ひとつの団地をつくるのに、これだけの顔ぶれが並んだのは、これが住宅ではなく、住宅のつくり方そのものを試す事業だったからです。

06

昭和五十年

建物の話を先にしましたが、土地のほうに戻ります。

昭和四十四年に始まった埋立工事は、昭和五十年に造成を完了しました。六年間です。

この年、芦屋の地図の南端が、下に動きました。

市域が増える、というのは、行政にとってかなり珍しい出来事です。ふつう、市の面積は変わりません。合併すれば増えますが、それは隣の街の面積を足しただけで、土地そのものは前からあった。埋め立ては違います。前になかった土地が、地図に現れる。

第一話に、精道村ができたとき四つの村の境界線が消えた、ということを書きました。線が消える出来事は、歴史のなかでときどきあります。線が増える出来事は、もっと少ない。

前になかった土地が、
地図に描き足されました。

そしてこの土地には、名前が要ります。高浜町。若葉町。新浜町。浜風町。潮見町。海の上にできた町なので、新しく名づけられました。

名前の付け方を見ると、浜、風、潮、と、海に関わる字が並んでいます。埋め立てて陸にした場所に、わざわざ海の字を残した。第一話に出てきた打出や三条や津知のような、由来をたどらないと分からない名前とは、つくりが違います。土地と一緒に、名前も設計されている。

第一話の名前の話が、ここでもう一度出てきます。四つの村の名前を借りるところから始まった街が、八十六年後には、自分で土地をつくって、自分で名前をつけている。

07

足された土地に

市域のかたちの変化を、地図で並べます。

左は市になった昭和十五年。真ん中は芦屋浜の造成が終わった昭和五十年。右は、その先の話ですが、南芦屋浜に人が住み始めた平成十年です。南に向かって、色の付いた部分が二段階で増えています。

この二段階のあいだに、二十三年の間隔があります。そしてそのあいだに、この街は一度、倒れています。

芦屋浜の埋立地が完成し、高層住宅が立ち、人が住み始めた。その十六年後の一月に、地面が揺れました。海の上の土地に建てた二十九階が、どうなったか。次の回で書きます。■

1940

1975

1998

FIG.4市域のかたちの変化。市になった年、芦屋浜の造成が終わった年、南芦屋浜に人が住み始めた年。南側の色の付いた部分は、それまで海でした。

08

歩いてみる

この回は、南へ下る回です。

阪神芦屋駅から南へ。国道四十三号を渡り、さらに下って芦屋公園まで。松の立っているこのあたりが、かつての海岸線です。ここから先が、およそ五十年前には海だった場所になります。道の感じが変わります。碁盤の目のように整った区画で、古い家がありません。全部、埋め立てたあとに建ったものだからです。

高浜町、若葉町まで来ると、高層住宅群が見えてきます。真下に立って、見上げてください。二十九階です。昭和五十四年に、海の上に、これを立てた。

そのまま南端まで歩くと、人工の浜に出ます。埋め立てる前、浜はもっと北にありました。いま立っている場所そのものが、五十年前には水の中です。

足元の土地が、自分より年下かもしれません。

芦屋公園
松の残る、かつての海岸線。ここから南が埋立地
高浜町・若葉町
昭和五十四年に立った、十四階から二十九階の住棟
業平町
かつての浜の記憶を残す町名
人工海浜
埋立地の南端。もとの海岸線は、はるか北

SOURCE 埋立の開始年、造成完了年、昭和三十年代の都市基盤整備、昭和四十六年の総合計画については芦屋市の公開資料に拠りました。芦屋浜埋立地構想・計画の策定、提案競技の主催団体、応募状況、当選企業連合、着工と竣工の年月、戸数、床面積、延べ人員、総費用、階数、構造、受賞歴は、建築および住宅政策に関する公開資料によります。在原業平の別荘の伝承、海水浴場としての歴史、芦屋遊園地の開園は二次資料に拠っており、一次資料での確認は取れていません。