芦屋みっけ 特集芦屋の来歴

THE NIGHT THE SUNFLOWERS BURNED

ひまわりが
焼けた夜

打出小槌町の家の応接間に、ゴッホの絵が一枚かかっていました。壁から外せないまま、家ごと焼けています。

PHOTO — 打出小槌町(写真差し替え)

SCROLL

01

十分間

この街への最初の空襲は、昭和二十年五月十一日の午前でした。ただし、狙われていたのは芦屋ではありません。

第一目標は、隣の本庄村にあった川西航空機の甲南製作所です。いまの神戸市東灘区、青木のあたりにあたります。航空機をつくる工場でした。

落とされたのは五百ポンド、およそ二百五十キロの通常爆弾です。投下されていた時間は、午前九時五十三分から十時三分まで。

十分間でした。

工場を叩くための攻撃ですから、精密に狙って、短く終わらせるのが目的です。その十分のあいだに、爆弾のいくつかが目標から外れました。

爆撃には、二つのやり方がありました。工場や軍の施設といった一点を狙って壊す精密爆撃と、市街地を面で焼く地域爆撃です。この日は前者でした。目標を一つ決め、そこへ向かって短い時間で落とし、引き返す。落とされたのが焼夷弾ではなく通常爆弾だったのも、そのためです。

この違いは、覚えておいてください。三か月後の夜には、まったく別のやり方が使われます。

この街の四年半にわたる戦争被害は、そういう形で始まっています。誰かが芦屋を地図の上で選んだのではなく、隣町を狙った弾が届いた。

市になって、まだ四年半でした。

FIG.1西芦屋町には、いまも機銃掃射の跡が残っています(写真差し替え)

02

余波

二度目は、六月五日の朝でした。

この日の攻撃目標は神戸の市街地です。午前七時二十二分から八時四十七分まで、焼夷弾が落とされました。被害は神戸の市街地だけにとどまらず、東は東灘から西宮まで広がります。

芦屋が受けた二度目の被害は、この攻撃の余波によるものでした。

この朝、県立芦屋中学校の打出校舎が焼けています。いまの精道中学校が建っている場所です。学校に残された記録によれば、午前六時半に敵の編隊が来襲し、多数の焼夷弾が少数の小型爆弾とともにほとんどの校舎に落ちて、三十分ほどで全焼した。消防隊が来ても間に合わなかった、とあります。不発弾が破裂して、二人が重傷を負いました。

記録の書きぶりは、淡々としています。時刻、来襲、落下、全焼、消防隊も及ばず。感情を書き込む余裕がなかったのか、そういう文書だから書かなかったのか。どちらにしても、三十分で校舎が一棟残らず燃えたという事実だけが、乾いた言葉で残されました。

三度目は、六月十五日です。

この日に狙われたのは大阪などの市街地でした。午前八時四十四分から十時五十五分にかけて、四百四十四機のB29が焼夷弾を落としています。そのうちの一部が、芦屋市域に落ちました。

三度とも、
狙われたのは別の街でした。

ここまでの三回、芦屋は一度も第一目標になっていません。工場を狙った弾がそれ、神戸を焼いた火の端が届き、大阪へ向かう編隊が落としたもののいくつかが落ちてきた。

神戸と大阪という二つの大都市に挟まれ、そのあいだを三本の鉄道でつながれているという、この街の立地がそのまま出ています。ふだんは便利さとして語られる位置です。

03

鳥取へ

七月、子どもたちが街から出ていきました。

精道国民学校の学童二百二十三人と、宮川国民学校の学童二百七人。合わせて四百三十人が、鳥取県の東伯郡へ集団疎開しています。

精道国民学校は、四つの村が名前を借りたあの学校の後身です。村の名前の由来になった学校から、四百人の子どもが山陰へ送り出された。

この時期の暮らしのことも、記録に残っています。米も、味噌も、塩も、牛乳も配給制になり、工業試験所は休止していました。防空演習があり、学徒動員があり、勤労奉仕があった。戦争に行った人の家族には、募金や慰問といった形での支援が行われていました。

七月に子どもが街を出てから、八月のあの夜まで、ひと月あります。

四百三十人が芦屋にいなかった、という事実の意味は、次の節を読むと変わってくると思います。

FIG.2精道小学校。村の名前は、この学校からきています(写真差し替え)

PHOTO — 打出小槌町(写真差し替え)

04

応接間の絵

ここで、二十五年前にさかのぼります。

大正九年の十二月、一枚の油絵が日本に着きました。フィンセント・ファン・ゴッホが、南フランスのアルルで描いた『ひまわり』です。花瓶に生けたひまわりを、ゴッホは生涯に七点描きました。そのうちの一枚でした。

花は五本。背景には、黄色と補色になる深い青が使われています。青を背に置くと、花びらの黄色が前へ浮き上がって見える。

買ったのは、山本顧彌太という実業家です。綿織物の商いで成功した人でした。購入額は二万円。いまの価値でいえば、二億円に相当するといわれます。

大正九年という時期が効いています。当時の日本で、ゴッホという画家の名前を知っていたのは、ごく一部の文化人だけでした。いまの評価とはまったく違う状況で、それだけの金額を出したことになります。

当時の日本で、西洋の絵画は印刷や複製を通して紹介されるのがふつうでした。雑誌に載った白黒の図版を見て、色を想像する。本物の油絵を、絵の具の盛り上がりごと目にする機会は、ほとんどありませんでした。

山本の背中を押したのは、白樺派の作家たちでした。武者小路実篤や志賀直哉たちが、本物の西洋美術を日本に置きたいと考え、美術館をつくる構想を持っていた。その一枚目として、この絵は買われています。

自分のものではない、
日本の宝だ。

ところが、白樺美術館の構想は実現しませんでした。行き先を失った絵を、山本が自宅で預かることになります。

その家が、打出小槌町にありました。

05

運び出せなかった

戦争が近づくにつれ、山本は絵の置き場所を心配し始めます。

考えたのは、大阪の銀行に預けることでした。金庫の中なら、少なくとも火からは守れる。

断られています。理由は、湿度でした。湿気の多い場所に置くと絵が傷む、というのが銀行側の答えだったと伝えられています。

絵は、芦屋の家に戻りました。

置かれていたのは応接間です。ソファーの上の壁に掛かっていました。額は大きく、重いものでした。

この絵の二十五年は、そういう二十五年です。日本に来て、美術館のために買われ、美術館ができないまま個人宅の壁に掛かり、疎開させようとして断られ、元の壁に戻った。

絵は動けないまま、八月を迎えます。

06

午前零時二十五分

八月五日の夜半から、六日の未明にかけて。

この夜の攻撃目標は、阪神間の市街地そのものでした。工場でも、別の街のついででもありません。のちに阪神大空襲と呼ばれることになります。

六日の午前零時二十五分、先導機が投弾を始めます。

第三一四航空団の百二十五機が、そこから午前一時三十六分までの七十一分間、投弾を続けました。並行して第七三航空団の百三十機が、午前零時三十八分から二時一分にかけて、東灘から西宮にかけての帯に落としています。

芦屋に落とされた焼夷弾は、千五百発を超えました。

積まれていた弾の中身も分かっています。六ポンドの小型焼夷弾を数十発まとめて内蔵した集束弾。爆発すると即座に火が出て、あとから来る機に目標を示す百ポンドの焼夷弾。人を殺傷するための破砕集束弾。そして、夜の街を照らすための照明弾です。先導した二機は、五百ポンドの通常爆弾を積んでいました。

火をつけ、それを目印にして、次が同じところへ落とす。順序だてて街を燃やすための組み合わせです。

焼夷弾は、建物を壊すための兵器ではありません。火をつけるための兵器です。屋根を抜けて家の中で発火し、そこから燃え広がる。木と紙でできた日本の住宅を、面で焼くために設計されていました。

結果として、東灘、芦屋、西宮の全市街地のおよそ三割が損害を受けています。

この夜、打出小槌町の山本邸も燃えました。

絵は、壁から外されないままでした。

FIG.3いまの打出小槌町。住宅地の道が静かに続いています(写真差し替え)

07

九日前

八月六日は、終戦の九日前です。

あと九日、家が焼けなければ、あの絵はいまも日本にあったことになります。ゴッホの『ひまわり』は世界に七点しかなく、そのうちの一点が兵庫県芦屋市にある、という状態が続いていたはずです。

失われたものの大きさを、絵の値段で測るのは筋が違います。ただ、この一枚が焼けたという事実には、当時この街で何が起きていたかを、一行で伝えてしまう力があります。

四回の空襲による芦屋市の被害を、記録のまま並べます。

死者百三十九人、重傷五十七人、行方不明二人。全焼した家屋二千七百四十六戸、半焼八十七戸、全壊九十七戸、半壊百二十六戸。焼失した面積は、およそ五十五万九千坪。

そして被災者は、一万八千百七十一人。

当時の人口の、およそ五割にあたります。

二人に一人が、
焼け出されました。

七月に鳥取へ発った四百三十人の子どもたちは、この数字のなかにいません。帰ってきたとき、自分の家がどうなっていたかを、一人ずつ確かめることになりました。

焼け跡から立ち上がるにあたって、この街には選択肢がありました。隣の市と一緒になる、という話が出ています。人口の半分が焼け出された自治体が、単独で立て直せるのか。当然出てくる問いでした。

そして市は、ここから建て直しを始めます。五か年計画で土地区画整理事業に着手し、公共施設の復旧を進め、被災者に応急の住まいを用意していきました。この復興のなかから、六年後に、この街の性格を決める一本の法律が生まれることになります。■

COLUMN

芦屋公園の塔

昭和三十年十一月、芦屋公園に慰霊塔が建てられました。戦死した人と、海外からの引き揚げの途中で亡くなった人を弔うためのものです。以後、毎年慰霊祭が行われています。

公園というのは、ふだんは子どもが遊び、犬が散歩する場所です。芦屋では、その同じ敷地に塔が立っています。

08

歩いてみる

この回に出てくる場所は、どこも住宅地のただなかにあります。表示も案内もありません。知って行かないと、通り過ぎます。

阪神打出駅から北へ入ると、打出小槌町です。どの家がそうだったかを特定する必要はありません。この静かな住宅地のどこかに、七点のうちの一点が二十五年間かかっていた、ということだけ思い出せれば十分です。

精道中学校のあたりでは、六月五日の朝に校舎が三十分で焼けています。芦屋公園まで足を延ばすと、慰霊塔があります。

西芦屋町には、機銃掃射の跡がいまも残っています。八十年前に、上から撃たれた跡です。

いまの芦屋は、歩いていて戦争の気配がまったくしない街です。それは何もなかったからではなく、二人に一人が焼け出された街を、そこから七十年以上かけて建て直した結果です。

打出小槌町
ゴッホの一枚が、二十五年間あった住宅地
精道中学校
県立芦屋中学校の打出校舎が焼けた場所
芦屋公園
昭和三十年に建てられた慰霊塔
西芦屋町
いまも残る機銃掃射の跡

SOURCE 四回の空襲の日時、目標、投弾時間、および人的・物的被害の数値は、総務省「芦屋市における戦災の状況(兵庫県)」に拠りました。学童疎開の人数、復興土地区画整理事業、慰霊塔の建立も同資料によります。八月六日未明の投弾機数と焼夷弾数についても同資料および芦屋市の公開資料によります。県立芦屋中学校打出校舎の焼失は、同校の記録に拠ります。《芦屋のひまわり》の購入経緯、保管の事情、焼失の状況は、芦屋市の広報資料および公開資料によりました。銀行への保管依頼が湿度を理由に断られた経緯は二次資料に拠っており、一次資料での確認は取れていません。