芦屋みっけ 特集芦屋の来歴

THE FIFTH OF JULY

七月
五日

昭和十三年の夏、この村は山から落ちてきたものに埋まりました。水ではなく、土が家に入った家が、百五十六軒あります。

PHOTO — 芦屋川、開森橋のあたり(写真差し替え)

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01

十六艘

その四年前にも、この村は一度こわれています。昭和九年九月二十一日、午前八時前後。室戸台風が阪神間を通り抜けていきました。

精道村がまとめた被害の記録が残っています。死者三名、重傷者四名。家屋の流失が二十一戸、全壊が四十二戸、半壊が百六戸。床上浸水三百五十四戸、床下浸水二百二十二戸。

そして、最後にもう一項目あります。

流失船舶、十六艘。

いまの芦屋を歩いていて、船の話が出てくることはまずありません。ヨットハーバーはありますが、あれは海を埋め立てたあとに造られたものです。けれど昭和のはじめには、この村には流されるだけの数の船がありました。山の手に別荘地ができていく同じ時期に、海のそばでは人が舟を出して暮らしていたということです。

ひとつの街のなかに、山の暮らしと海の暮らしが同時にあった。その両方が、同じ日に風で削られました。

村はこれを片づけ、建て直します。そして四年後、もっと大きなものが山から降りてきます。

FIG.1いまの芦屋の海辺。この一帯はすべて、戦後に埋め立てられた土地です(写真差し替え)

02

六月二十八日から降っていた

昭和十三年の梅雨は、長く居座りました。

六月二十八日から、雨は断続的に降り続いています。数日おきに強くなっては弱まり、また降る。山にしみ込む水が、抜けきらないまま次の雨を受ける状態が、一週間以上続いていました。

その山が、六甲です。

六甲山は花崗岩でできています。硬い岩に見えて、風化すると手で崩せるほどもろくなる。そのもろくなった砂が、雨のたびに谷へ落ちて、川床にたまっていきます。

芦屋川は、その谷から海まで一気に下る急流です。標高差を短い距離で駆け下りるので、土砂を運ぶ力は強い。けれど運びきれなかったぶんは、そのまま川床に残ります。

三年前の昭和十年にも、この川は毎月のように集中豪雨に遭っていました。上流で土砂災害が起き、樹木や巨石を含んだ土砂が押し出されて、川床は目に見えて上がっていたといいます。器が浅くなっていた、ということです。

あふれる準備は、
三年前からできていました。

ただ、当時それを危険と呼ぶ人はいませんでした。川は町のすぐ脇を流れていて、そのそばに家が建ち、線路が渡り、駅ができていく。阪神間がいちばん勢いよく伸びていた時期です。山を削り、斜面に道を通し、木を切って家を建てる。その土がどこへ行くかは、誰の仕事でもありませんでした。

七月三日の夕方から、雨は目に見えて激しくなります。

03

七月五日の午前

七月五日。朝からの雨が、記録に残る強さになります。

精道村では、この日の午前に一時間あたり六十・八ミリという雨量が観測されました。三日から五日までの三日間で、神戸市中央区の総雨量は四百五十六ミリ、東の住吉で四百三十六ミリ、西宮で三百六十二ミリ。年間に降る雨の、三分の一近くが三日で落ちた計算になります。

神戸では、五日の八時から正午までの四時間だけで百六十六ミリが降りました。

山が保てる量ではありませんでした。表六甲の主要な十一の河川の流域で、山腹の崩れた箇所は二千七百二十七か所にのぼります。ひとつの山の南側だけで、二千七百です。

崩れた土砂は、谷をつたって落ちてきます。水と土と、岩と、切られずに残っていた木がいっしょに流れ下る。土石流です。

精道村では、芦屋川と宮川がいたるところで氾濫しました。芦屋川ではこれが土石流になり、そのまま市街地へ入っています。

五年前にできたばかりの国鉄芦屋駅も無事ではありませんでした。芦屋川の堤防が決壊し、駅の構内が水に浸かっています。村が請願し、工事費を寄付してまで手に入れた駅でした。

FIG.2芦屋川の上流。谷の傾きが、そのまま町へ向いています(写真差し替え)

04

数字

精道村がまとめた被害を、そのまま並べます。

死者三名、重傷者二名。家屋の流出十四戸、全壊十四戸、半壊百十一戸。床上浸水七百九十戸、床下浸水千四百五十八戸。橋の流出六か所、橋の損壊八か所、道路と堤防の破損・決壊十か所。

この並びのなかに、見慣れない項目がひとつ混じっています。

床上土砂堆積、百五十六戸。

水が入ったのではなく、土が入った家です。しかも床下ではなく、床の上まで積もった。水は引きますが、土は引きません。七月の暑さのなかで、百五十六軒の家の住人が、自分の畳の上に積もった山を運び出すところから始めたことになります。

水は引きます。
土は、引きません。

阪神地方全体では、死者と行方不明を合わせて六百九十五名。被害を受けた家屋は十一万九千八百九十五戸にのぼりました。

被害がいちばん集中したのは神戸市です。当時の全人口の七割二分、全家屋の七割二分が被災しました。市民のうち三人に二人以上が、なんらかの形で家をこわされたことになります。

この一帯が明治以降ずっと住宅地として開かれ、人が集まってきた場所だったことが、そのまま被害の大きさになりました。山を背にした暮らしやすさと、山から落ちてくるものの量は、同じ地形の表と裏です。

FIG.3–6芦屋川沿いの現在。護岸、堰、砂防設備(写真差し替え)

PHOTO — 芦屋川上流(写真差し替え)

05

二本西の家で

その日、芦屋川から二本西を流れる住吉川のほとりに、一人の小説家がいました。

谷崎潤一郎です。関東大震災をきっかけに関西へ移ってきて、昭和十一年の十一月から、この川沿いの家に住んでいました。倚松庵と呼ばれる家です。

谷崎はこの水害を、のちに『細雪』のなかに書き込みます。それも一行や二行ではなく、長い山場として。四姉妹の物語のなかで、この日の雨と濁流に丸ごと一章が使われています。

作中には、五日の明け方から雨が突然激しくなり、やむ気配がなかったことが書かれています。そして蘆屋川や高座川の上流の方で山崩れがあったらしく、阪急の線路の北側にある橋のところに、流されてきた家や土砂や岩石や樹木が、あとからあとから山のように積み重なっていった、と続きます。

橋が土砂で詰まり、水の逃げ場がなくなって、あふれる。目の前で起きたことを見ていなければ書けない順序です。

小説のなかでは、主人公の貞之助が、洋裁学校へ出かけたまま帰らない妙子を探しに、濁流のなかへ出ていきます。線路の上を伝って学校へ近づけないかと考える場面があり、そこには救助へ向かう人間の、細かすぎるほどの計算が書かれています。

その日この町にいた小説家が、
その日のことを書き残しました。

災害の記録は、ふつう数字と役所の報告書の形で残ります。何人が亡くなり、何戸がこわれたか。それは正確ですが、そこに住んでいた人が何を見て、何を考えて走ったかまでは残りません。

芦屋にとって、そこが書き残されているのは、かなり珍しい幸運だと思います。しかも書いたのは、この街の名前を全国に知らせることになる作家でした。

06

山が国に引き取られた

この水害のあと、原因の見方が変わります。

雨が多かった。それは事実です。ただそれだけなら、山があれほど崩れる理由になりません。開発によって六甲の山肌が荒れていたことが、被害を大きくした背景として指摘されました。

宅地を広げ、道を通し、木を切る。ひとつひとつは、街が伸びていく過程でどこでも起きることです。それが積み重なった結果として、山が水を保てなくなっていた。

対応は早いものでした。水害から二か月後の昭和十三年九月、内務省が六甲砂防事業所を設置します。それまで兵庫県が担っていたこの一帯の治水と砂防が、国の直轄事業に移されました。

いまの国土交通省六甲砂防事務所が、これにあたります。

芦屋川をさかのぼって歩くと、上流に堰堤がいくつも並んでいます。谷を横切るコンクリートの壁で、水を止めるためではなく、土砂を受け止めるために置かれたものです。ハイキングの途中では、ただの風景として通り過ぎてしまう。

あれは、昭和十三年七月五日の続きです。

山から町へ落ちてきたものを、二度と落とさないための設備が、八十年以上かけて谷に置かれ続けている。芦屋の山側の静けさは、放っておいて手に入ったものではありません。

FIG.7芦屋川上流の堰堤。土砂を受け止めるための設備です(写真差し替え)

07

開森橋のたもと

芦屋川の堤防が決壊したのは、東芦屋町、開森橋の東詰のあたりでした。

いまそこに行っても、当日を思わせるものは何もありません。整えられた護岸と、桜並木と、川沿いの道があるだけです。

ただ、石碑が一基、立っています。

昭和六十三年七月、東芦屋町自治会が建てたものです。碑文は短く、あの水害から五十年になること、そして二度と同じことが起きないよう祈る、という趣旨のことが刻まれています。

五十年後に建てた、というところが、この碑のいちばん大事な点だと思います。

百年後ではありません。当時十歳だった子どもが六十歳になっている頃です。町内会でそれを決めた人たちの中には、自分の家から土を運び出した人が確実にいたはずです。忘れられる前に、まだ覚えている人がいるうちに、覚えていない人のために置いた。

そして、この水害の二年後に、精道村は市になります。昭和十五年十一月十日。

畳の上の土をかき出し、流された橋を六か所架け直し、決壊した堤防を直した村が、そのまま市になった。順序としては、そういうことです。■

COLUMN

地図に載る石碑

開森橋の石碑は、自然災害伝承碑として記録されています。過去の災害を伝えるために建てられた碑を、地図の上で拾えるようにする仕組みです。

石碑というのは、その土地に住んでいる人が、あとから来る人に宛てて書いた手紙のようなものです。宛先は、まだ生まれていない誰かになります。

08

歩いてみる

この回は、川を下るのではなく、のぼると分かります。

阪急芦屋川駅から北へ。開森橋のあたりまで来たら、東詰を探してください。石碑があります。ここが決壊した場所です。振り返ると、坂の下に町が広がっているのが見えます。あの高さから、土砂が落ちていきました。

そのまま川沿いをのぼると、谷が深くなり、堰堤が見えてきます。ひとつ目を過ぎたら、次を探してみてください。いくつあるかを数えながら歩くと、この街が何を警戒し続けているのかが、体感として分かります。

帰りは川を下って、JR芦屋駅まで。八十年以上前、この駅の構内は水に浸かりました。いま改札を出て振り返ると、川はずいぶん行儀よく流れています。

開森橋
東詰に、決壊の地を示す石碑
芦屋川上流
谷に並ぶ堰堤。水ではなく土砂を止めるもの
JR芦屋駅
昭和十三年、構内が冠水した
宮川
この日、芦屋川とともに氾濫したもう一本

SOURCE 室戸台風および阪神大水害における精道村の被害数値、当日の雨量は芦屋市の公開資料に拠りました。阪神地方全体の被害、山腹崩壊箇所数、神戸市の被災率、六甲砂防事業所の設置経緯は、国および自治体の公開資料によります。国鉄芦屋駅の冠水は駅の公開記録によります。『細雪』からの引用は、著作権の保護期間が満了した作品からのものです。開森橋の石碑の建立年と建立主体は、碑および公開情報によります。