明治二十二年、四月一日。町村制という新しい制度が始まった日に、六甲の南斜面にあった四つの村が、ひとつになりました。芦屋村、打出村、三条村、津知村。
四つといっても、大きさは揃っていません。芦屋村には、浜芦屋という枝郷がありました。海に近い側の集落で、のちに舟を出す人たちが住む浜になります。打出には打出の小槌の伝承があり、三条と津知は、それぞれ川と山のあいだの小さな村でした。
新しい村には、新しい名前が要ります。ところが、決まった名前は四つのうちのどれでもありませんでした。
精道村。
その土地にあった精道小学校から、名前を借りてきたのです。四つの村の、どれも選ばない。どれも上に立てない。学校の名前なら、誰のものでもない。
合併というのは、地図の上では線が消えるだけの出来事です。けれどそこに住んでいる人にとっては、自分の村の名前が今日で終わる、という日でもある。四つの名前が同時に行き場を失った春に、この村は生まれました。
ひとつ、この村の性格を示す建物があります。大正十二年に竣工した、精道村役場です。鉄筋コンクリート造で、総工費はおよそ六万三千円。村の役場としては破格で、日本一の村役場と呼ばれました。
村です。市ではありません。それが、鉄筋コンクリートの庁舎を建てている。この村に、それだけの財力と、それだけの自負があったということです。住宅地として人が集まり始めていた時期で、村は自分たちを、ただの村だとは思っていなかった。
もっとも、三つは生き延びます。打出、三条、津知。いまも芦屋市の町名として、地図に残っています。駅の名前にもなりました。
残った一つが、芦屋でした。