芦屋みっけ 特集芦屋の来歴

A NAME FROM ELSEWHERE

よそから
来た名前

一八八九年の春、この土地から「芦屋」という名前が消えました。戻ってくるまでに、五十一年かかっています。

PHOTO — 六麓荘町、坂の上から(写真差し替え)

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01

精道という名前

明治二十二年、四月一日。町村制という新しい制度が始まった日に、六甲の南斜面にあった四つの村が、ひとつになりました。芦屋村、打出村、三条村、津知村。

四つといっても、大きさは揃っていません。芦屋村には、浜芦屋という枝郷がありました。海に近い側の集落で、のちに舟を出す人たちが住む浜になります。打出には打出の小槌の伝承があり、三条と津知は、それぞれ川と山のあいだの小さな村でした。

新しい村には、新しい名前が要ります。ところが、決まった名前は四つのうちのどれでもありませんでした。

精道村。

その土地にあった精道小学校から、名前を借りてきたのです。四つの村の、どれも選ばない。どれも上に立てない。学校の名前なら、誰のものでもない。

合併というのは、地図の上では線が消えるだけの出来事です。けれどそこに住んでいる人にとっては、自分の村の名前が今日で終わる、という日でもある。四つの名前が同時に行き場を失った春に、この村は生まれました。

ひとつ、この村の性格を示す建物があります。大正十二年に竣工した、精道村役場です。鉄筋コンクリート造で、総工費はおよそ六万三千円。村の役場としては破格で、日本一の村役場と呼ばれました。

村です。市ではありません。それが、鉄筋コンクリートの庁舎を建てている。この村に、それだけの財力と、それだけの自負があったということです。住宅地として人が集まり始めていた時期で、村は自分たちを、ただの村だとは思っていなかった。

もっとも、三つは生き延びます。打出、三条、津知。いまも芦屋市の町名として、地図に残っています。駅の名前にもなりました。

残った一つが、芦屋でした。

COLUMN

消えなかった三つ

打出、三条、津知。合併で村としては消えたはずの名前が、いまも町名として残っています。打出町、三条町、津知町。阪神電車には打出駅もあります。

芦屋を歩いていて、由来の分からない地名に出くわしたら、それは百三十年以上前に村だった場所かもしれません。

02

切符の上だけ、芦屋

行き場を失った名前は、意外なところで拾われます。

明治三十八年四月十二日。阪神電気鉄道が本線を開業させ、この村に駅を置きました。その駅につけられた名前が、芦屋です。

村の名前は、精道。けれど駅の名前は、芦屋。

八年後、国が敷いた鉄道にも駅ができます。大正二年八月一日。村が自ら請願し、工事費を寄付して手に入れた駅でした。こちらも、名前は芦屋です。

理由は記録に残っています。精道より、芦屋のほうが知られていたからです。合併で消えたはずの村名が、当時まだ字名として残っていて、しかも新しい村名より通りがよかった。国の鉄道は、そちらを採りました。

ついでに書いておくと、当時の芦屋は「蘆屋」と書かれることが多かったようです。蘆は、水辺に生える葦のことです。葦の生える川のほとり、という地形が、そのまま名前になっている。谷崎潤一郎はこの字で書いています。

大正九年七月十六日には、阪急が神戸線を開通させ、山手に芦屋川駅を置きます。三本目です。

役所の書類には精道、
切符には芦屋。

実は四本目もありました。昭和二年に、阪神国道電軌という路面電車が営業を始めています。国道の上を走る電車です。こちらは昭和四十九年に廃止され、いまは残っていません。三本の線路の街として知られる芦屋は、一時期、四本でした。

ここから二十七年のあいだ、この土地には名前が二つありました。行政が呼ぶ名前と、人が口にする名前です。そして人が口にするほうは、鉄道会社が決めたものでした。

FIG.1三つの駅は、いまもすべて「芦屋」を名乗っています(写真差し替え)

03

山を買いに行った人たち

同じころ、この村の北側で、まったく別の話が動いていました。

明治の終わりから昭和のはじめにかけて、大阪の実業家たちが、六甲の南斜面に次々と邸宅を構えていました。住吉、御影、芦屋、夙川。大阪の煙と喧噪を離れ、山と海のあいだの、空気のよい斜面に住む。洋館を建て、洋食を食べ、テニスをし、音楽を聴く。この時期のこの一帯に育った生活文化は、のちに阪神間モダニズムと呼ばれることになります。

芦屋の山手も、その流れのなかにありました。精道村が日本一の村役場を建てられたのは、こういう人たちが村に住み始めていたからです。

昭和三年。大阪の実業家だった内藤為三郎らが、六甲の南斜面にある国有林の払い下げを受けます。目的は、別荘地をつくることでした。

掲げた目標が、東洋一。

控えめな言い方ではありません。彼らは造成にあたって、アメリカやヨーロッパの街並みを見て回り、最終的に手本に選んだのが香港島の街区だったと伝えられています。

土地の選び方も理屈が通っていました。東の西宮寄りに行きすぎると冬が寒い。西の神戸寄りに行きすぎると、夜と夏が暑い。だからこの斜面がいい、という結論に落ち着いたといいます。海抜二百メートルから二百五十メートル。広さは約三十七・七ヘクタール。

水が乏しい土地だったので、まず水利権を押さえました。治安が悪いという問題があったので、周辺三か所に交番を置き、巡査の給料は自分たちで払ったそうです。

会社の名は、株式会社六麓荘。六甲の麓の別荘地、という意味です。

FIG.2六麓荘町の交差点に立つ石柱。この山手側が、かつての国有地でした(写真差し替え)

PHOTO — 六麓荘町(写真差し替え)

04

三百坪

彼らが決めたのは、土地の買い方ではなく、住み方でした。

狭い山道を幅六メートル以上に広げ、一戸あたりの標準区画を三百坪を超える大きさに取りました。一つの家が占める面積を、最初から決めてしまったわけです。

この考え方は、いまも続いています。六麓荘町には町内会が定めた建築協定があり、一区画は四百平方メートル以上と決まっています。建ててよいのは、個人が住むための一戸建てだけ。集合住宅は建てられません。商店も、事務所も建てられません。

だからこの町には、マンションがありません。コンビニもありません。電柱も、信号もありません。約二百五十の世帯が、そういう場所に住んでいます。

美しさは、
最初に決められていました。

芦屋を歩いていて感じる整い方を、住んでいる人の趣味やお金の話だと思うと、たぶん半分しか見えません。九十年以上前に、誰かが紙の上で線を引いて、そのとおりに家が建ってきた。整っているのではなく、整えてある。

この街が、そういう決め方を繰り返していくことになるのは、もう少し先の話です。

05

隣町から書かれた街

芦屋という名前を、全国に知らせた一冊があります。

谷崎潤一郎の『細雪』です。大阪船場の旧家に生まれた四人姉妹の物語で、下の二人が入り浸っているのが、芦屋にある姉夫婦の家、という設定になっています。上品で、少し退屈で、桜を見に行ったり着物を選んだりしている。多くの人が思い浮かべる芦屋は、かなりの部分がこの小説からきています。

その谷崎は、関東大震災をきっかけに関西へ移ってきた人でした。北に六甲、南に海というこの地形を気に入って、住み続けることを選びます。

そして昭和十一年十一月から昭和十八年十一月までの七年間、住吉川のほとりの家に暮らしました。倚松庵と呼ばれるその家で、『細雪』は書かれています。

昭和六十三年、芦屋市は谷崎潤一郎記念館を開きました。この街を舞台にした小説を書いた作家を、街のほうが記念している。

住吉川は、芦屋川の二本西を流れる川です。当時の行政区分でいえば、そこは芦屋ではありません。いまの神戸市東灘区にあたります。

この街のイメージをつくった小説は、
この街の外で書かれました。

村の名前は学校から借り、通り名は鉄道会社が決め、山の上の町は大阪の実業家が香港を手本に設計し、街のイメージは隣町の家で書かれた。

芦屋という場所は、外から来たものを引き受けることで、かたちになってきたところがあります。

FIG.3芦屋市には、いまも谷崎潤一郎記念館があります(写真差し替え)

06

十一月十日

昭和十五年十一月十日。精道村は市になりました。全国で百七十三番目の市です。

このとき、新しい市につける名前が要ります。

選ばれたのは、芦屋でした。五十一年前の合併で消え、字名として細々と残り、鉄道会社と国に拾われて駅の名前になっていた、あの名前です。

市の記録には、精道村のなかに芦屋というよく知られた地区があり、それが市の名前として採用された、と書かれています。よく知られた、というところが要点です。五十一年のあいだ、行政上は存在しなかった名前が、駅と、字名と、人の口によって、村の名前より知られたものになっていた。

整理すると、こうなります。村の名前だったものが、合併で消えて、駅の名前になって、市の名前になった。

返ってきたのではありません。呼ばれ続けたから、そうなった。五十一年のあいだ、この土地の人はずっと「芦屋へ帰る」と言い続けていたはずで、行政のほうが最後にそれを追認した、というだけの話です。

市になったあとも、庁舎は変わりませんでした。大正十二年に建てた日本一の村役場が、そのまま市庁舎として使われています。看板だけを掛け替えて、中身は同じ建物で仕事を続けた。

ちなみに、いま芦屋市役所が建っているのは、精道町七番六号です。名前を譲った側は、まだそこにいます。■

07

歩いてみる

この回の話は、三か所に立つと形になります。順に歩いて一時間ほどです。

まず市役所の前に立って、住所表示を見てください。精道町。名前を譲った村が、市の中心にまだ座っています。

次に阪急芦屋川駅から北へ坂をのぼって、六麓荘町の石柱まで。ここから上が、九十年以上前に払い下げられた国有林です。看板もコンビニも電柱もない道を歩くと、決められた美しさというものが、どういう手触りなのかが分かります。

最後に、打出、三条、津知。合併で消えなかった三つの名前を、町名表示板で拾って歩きます。

精道町
市役所の住所に残る、譲られた側の名前
六麓荘町
交差点の石柱。山手側が、かつての国有林
打出・三条・津知
消えなかった三つの村の名前
谷崎潤一郎記念館
住んでいた家は、隣町にあります

SOURCE 精道村の成立と市制施行、市名の由来は芦屋市の公開資料に拠りました。各駅の開業年月日と駅名選定の経緯は、鉄道各社および駅の公開記録によります。谷崎潤一郎の居住期間と倚松庵の所在は神戸市の公開資料によります。六麓荘の開発経緯のうち、香港島を手本にしたこと、交番の設置についてはいずれも二次資料に拠っており、一次資料での確認が取れていません。